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今だから話せるコンサート秘話


2003年12月20日 薫習庵HPの掲示板に 


先日、人気の有る薫習庵HPの掲示板へ関西で活躍中の吉村氏が書き込みで かって当会主催の、名曲鑑賞会で複協奏曲の横山勝也氏のバックで出て頂いた 尺八の若手10人が僕(吉村氏)を除いて全員プロになられました・・・・と書いて 居られました。私は吉村さんのなさっている事は立派なプロとしての働きですよ。 と答えたのですが、実は「鼎」の筝の人からも同じような意味の事を言われました。 このように名曲鑑賞会から色々な花が咲いて来るのですがその逆もあります。

坂田美子さんは拙宅の1Fをコンサートが出来る和式のホームコンサート会場にしているのです が、 そこへ坂田さんをお招きして「敦盛」を語って頂いたのです。それが立派な芸術と 曲中の敦盛がたまたま息子と同年輩だった事で私は滂沱の涙だったのです。 坂田さんが「勉強したのだけどこうやって語りでは呼んで貰えません」と嘆いて おられたので、横山先生が古典を独吹させて貰えないと嘆いておられたのを 思いだし坂田さんのこんな立派なのを20人程で聴かせてもらうなんて勿体無いと 名曲鑑賞会に出演して頂いたのです。其のあと直ぐテレビに出られ、後は皆様も 良くご存知の通り、今では琵琶界のNO1に駆け上ってしまわれました。でも彼女は 我が家のホームコンサートと少しも変わらぬ態度で6月の第二日曜はメルパルクホール へ琵琶を抱えて来て下さるのです。
この様な回顧をしていますと私も幾分か邦楽発展 の礎に貢献出来たのかな?と自らをなぐさめているのです。




2003年7月9日 第11回名曲鑑賞 久本玄智作曲、複協奏曲スコア完成


ピアノをバックに「筝と尺八の複協奏曲」の演奏 我が家に有るレコードにオーケストラをバックに筝と尺八の複協奏曲という のがあり、琴の楽譜も買って見たもののオーケストラでは手も出せず、私は この曲を弾いてみたくて堪らないものの思案投げ首でした。これまでも オーケストラの部分をピアノでされているのを聞いたことがありますが、 これが絶対手に入らないと言う頑とした物があったのです。 「では作ろう」と言う事で、聞き取り名人と言われる岸和田の“I”さんに お願いして6ヶ月ほどで荷物が届きました。「以外と速かったなー」と喜んで 開けてみるとそれは丁重な手紙と共に返品でした。 次は“T”さん。−又同じ。 やっと京都の藤井貞泰先生を紹介して頂き二年掛かって出来て来た物です。 この間合計5年・・・嬉しかったですメルパルクの名曲鑑賞会で弾いたため、 この後鳥取県米子市、尼崎市、奈良市等でお招きを受け演奏をさせて頂いたのです。 この大変な年月と費用掛けたこの曲は要望があればどんどん貸してあげています。 このHPを読まれた方の中に真面目に取り組みたい方は勿論お貸ししますよ。 …。



2003年4月15日 第8回名曲鑑賞第1弾 永広滸山少年(現孝山)の出現  

第7回の名曲鑑賞会が終わって暫くしてからでした。 我が家の電話が鳴り尺八製管師として有名な永広真山氏が一度逢いたい と言う内容でした。真山氏はこの時初対面のつもりだったらしいのですが 実はこの時を更に15年程さかのぼった昭和40年代に今の永広邸に移られる 以前のお宅に訪問しています。そのころ日本楽器(現ヤマハ)が6万円で持ち運びの 出来るピアノ用チューナーを開発したのです。6万円は当時普通のサラリーマンの 1ケ月の給料だった(これ以下の人が多かった)のです。でも外部の人には販売禁止 なので何とかなりませんか?という、友人の小林一城君を介しての依頼で私が 会社に御願いしてお世話をしたのでした。真山氏は筝を弾いている私は全く別人 と思っておいでのようでした(ひょっとしたら今も)。

真山氏は「息子が17才の最年 少で 準師範を通り立派な会でデビュウさせたい。この間の会は本当に良い会なのに 観客が少なかった。もし息子の滸山を出させて貰えるなら券500枚位協力します」 との有りがたい申し出。調べてみると年齢を超越した高校生と分かったのです。 私の頭が又忙しく廻り始めました。“そうだ!札幌で見付けた中山いずみさんだと 世間の意表を突く名カップルになるぞ”と閃いたのです。 私の直感通り第8回も素晴らしいものでした。筝を羽賀幹子さんに御願いした 「尾上の松」若さ故か撥の持ち方が一寸変ないずみさんでしたが札幌で聞いた時より 更に成長して堂々として立派で亦滸山vsいずみの「壱越」は全国放送をされたのでし た。  

それにしても私は不思議でした。「あの撥の握り方で、どうしてあんなにいい音が でるの?」 私が15年間掛けて藤井久仁江先生から会得したものが根底から揺らぐのです。 疑問を放って置けない性格の私は又札幌へ飛びました・・・。分かったのです。 いずみさんのお母さん中山未知子先生のお話ですとあの三味線は北海道の 名人の作ったもので其の名人は三弦はこうでなくてはならない・・という思い入れが 強く 、出来てくる物が立派過ぎ、家1軒位の値段になり商売にならないので、作るのを 止めてしまったとのことです。良いお話でした。いずみさんに、このお話を伝えて、 「大事にしてよ!撥捌きを考えたらもっと凄い音が出るんじゃないでしょうか?」 と言うと「おばあちゃんが使ってたのが家に放ってあったので使ってるけどそんな いい物だったのですか?」と怪訝な顔なのです。




2003年03月24日 第7回第2弾


第7回は横山勝也先生のリサイタルを私共、「日本の音楽を広める会」 の主催でさせて頂いたのですが、プログラムの五番「二つの歌」と言う、 先生御自作の曲が有りました。これは「空海」の作と言われる、後の いろは・・となった“色は匂えど・・・”の歌(ショウミョウ)があるものでした。 歌は尺八=つまりご自身、が歌われても良いらしいのですが、私の閃きで、 関川昌宏君はどうでしょう?と言うと「いいねー」と言うことになりました。 彼は既に筝に見きりを付けて、琵琶の語りの名手を目指して、鶴田錦史先生 の門下生となり頭角を現しかけていました。鶴田先生とは「ノベンバーステップス」 の事も有り大変親しくされている横山先生は、関川君をご存知のようでした。 関川君は、いがぐり頭で、あまり見事な声明(しょうみょう)だったので、お客様は 本当のお坊さんだと思われたらしいですが、兎に角大変好評だったのです。 彼は以前、四国八十八箇所を行脚して仏画絵巻を完成させたりで只者ではなく、 本物の読経も出来るのです。その後私が「関川君。僕の先輩がお寺の1人娘さんと 結婚して今、生活の心配なしに音楽美学の勉強をしているから、君もそういうのが いいんじゃないか?」とたたみ掛けると「時々お声掛かりがあるのですがいやなんで す」 と、にべにも無い返事でした。「いいと思うよ!」と彼の事を考えて言ったのですが 無駄でした。 ・・今彼はどうしてますかって?・・・本物のお坊さんで1児のパパで裕福な琵琶の 語り部ですよ。



2003年03月3日 第7回第1弾


色々と有った後、大打撃を受けてやむなく休会に入った名曲鑑賞会ですが 時々年賀状に「今年は・・・・・?」と書いてあったり、5月頃にハガキでの問合わ せ や、電話も何件か掛かって来て、名曲鑑賞会を待ってくださっている人が有ると判り 勇気付けられたのでした。 其れは突然でした。「よし!復活させよう!」と身体の中から、むくむくと力が湧い てきたのです。 第7回は11月と言う季節外れになったのは、その為です。   

会場はアクアホール、350人の小型にしました。   私の尊敬している横山勝也先生の独演形式にする。入場料は無料にして中学生にも沢山来て欲しい 。弦方の共演者は大阪ではトップクラスが契約して下さいました。 今、見てもこんな立派な会が無料なんて、と思われますが、目的の中学生は来なく、 一般入場者も予想より遥かに少なく淋しいものでした。でも、不思議な事に今まで で 1番赤字は少なかったのです。 処でこのアクアホールから歩いて来れる所に尺八製管師で有名な永広真山氏が 住んでおられ覗きに来られたらしいのです。これがまた又次の運命の展開に なって来るのでした。




2003年02月22日 第6回第2弾 「三木稔フェスタルバラード」


名曲鑑賞会はこの回で痛手を受けて、第7回は急遽取り止めに なるのですが、最後に咲いた大輪の華とでも言いましょうか?  三木稔さんのフェスタルバラードを野坂先生を筆頭に二十絃を10面  17絃3面の見事なステージが飾られた事です。 本当に、今考えても、首をかしげるしかない大変なことです。 これは現、邦Jの田中編集局長の夢半分の希望だったのですが それが野坂先生を始め沢山の人の熱意で実現してしまったのです。 皆様も是非、目を瞑って10面の二十絃が鳴り響いているステージを 想像して見てください。この様な豪華な事はもう2度と出来ないでしょう。 田中編集長も残念乍ら成長して分別が出来てしまったので、今ではもう この様な大型の夢はブレーキがかかって思いつかない事でしょう・・・? この後、名曲鑑賞会は4年間ひっそりと失意の内に休眠に入るのでした。   次の更新は3月始めです

2003年02月04日 第6回第1弾 「名曲鑑賞会大打撃!」


第五回を準備中の頃、匿名の乱暴な文字の手紙が来出したのは以前に書きましたが 、内容を要約すると次のような事でした。
*売名行為は止めろ!  
*尾崎は下手だから出るな   こんな表現でした。乱暴な文ですが一理有るので真摯に受け止めて対応しました。  売名・・広める会の会長を交代する。 出るな・・取り敢えず出演を取り止める 。

弊社へ直接訪問され「貴方はお金を遣って何でこんな詰まらない事をするのですか? 其のお金を私どもへ寄付しなさい。そしたらもっと有意義な事をしてあげるから」と いうのも有りました。其れは私の方が自信が有ったので断わりました。 所が予期せぬ事が起きました。チケットは私が1人で5〜6百枚受け持って居たので すがパッタリと売れなくなったのです。私が行くと「尾崎さんは何処?」と聞かれ「今回 は弾かないのです」と言うと「ぢゃーこの次にするか」となってしまうのです。判った 事は、今までの人は殆ど義理買いだったのです。入場者は極端に少なく、赤字は500万円 を超え大打撃を受けてしまいました。どのくらい大きかったかと言いますとプログラム に第7回の予告を載せたのですが開催見合わせをせざるを得なくなり、この後四年間の休眠に入 るのです。 本当に私も馬鹿でした。良い会にしたいばかりに間違った忠告を受け入れダメージが 大き過ぎました。正に「角を矯めて牛を殺す」と言うのでしょう。・・・

処が奇しくもH P第五回頃からメールに招かざる客が増え始め第6回に入る前、とうとうコンピューターウィルスに 制覇され正しいメールが全く来なくなったのです。今日2月4日正常復帰しましたが、変な手紙 を思い出したのです。現在でしたら掲示板でショックをうけたのでしょうね・・・。



2003年01月05日 第5回名曲鑑賞第1弾 「迷い」

この頃は私の悩み多き頃でした。名曲鑑賞会も「売名行為は止めろ!」と無記名の ハガキがきたり、自分だったらもっといいプロデユースをしてあげると言う真面目な 電話もあり、又自分達のやっている会と合同でしないか?とか、逢ってみると「こんなに お金を無駄遣いするなら○○へ寄付した方がいい」というのもありました。 兎に角良い声は聞こえてこなく、 現人間国宝の久仁江先生まで「あなたの道楽にも困った ものねー!」とからかわれる始末。遂に先輩の熊本の田島先生から「尾崎さんは仕事も ボランテイアも一生懸命だけど結果は神様しか判らないのよ」 九州の高千穂の山の上に 神様と話が出来るお爺さんがいらっしゃるので訊いてみたら?と言うのです。 私は直ぐ熊本へ飛びました。空港に田島先生の弟さんが待って居られ、車で高千穂まで 送ってくださいました。本当に遠かったです。山の上に着くと今日は神様の降りて来られる 日、と言う事で随分の人でした。神様の声は、「そなたは人に良い事をしている。人に喜ばれて 駄目になる人は居ない。自信を持ちなさい」と云うものでした。下山すると夜になったので熊本 に泊まったのですが、驚いた事に其の日の内に「日成」(=私の会社)の扱っているアポロ (健康飲料、林檎酢)を販売したいと言う人まで現れたのでした。勿論私の悩みは吹っ飛びました。 それから2年ほど後、時計屋さんを止めてアルソアの販売店を開きたいと言う男性が現れて 悩んでいました。アルソアの黒い洗顔石鹸をお世話してあげてたら評判になって時計の客より 多い。その男性は店長だったのですが独立してアルソアをした方が良いのでは?との思いなのです。 高千穂に行ってみたいとの事なので今度は私の車でフェリーで行ったのですが期待していた神様の お言葉は「大成出来ません」NO-でしたが、時計屋さんのまま続けていたその御夫妻から「尾崎さん アルソアのお金を籠に入れていたらこんなになったので二人でハワイへ行ってきます」と言われ びっくりしたり喜んだりでした。



2002年12月25日 第4回名曲鑑賞第3弾


第4回は私が光崎検校の秋風の曲を弾き語りをさせて頂きました。それは、最後の 職人気質の楽器店主と言われた、笠井和三郎の追悼の為でした。この時の6ヶ月 前に逝去されたのです。その2〜3年前東京の琴作りの名人柿沢真平氏(柿沢さん の筝は一面で家が1軒買えました)が亡くなられた為、松尾恵子さんが秋風の曲を 弾いて追善にされ、笠井さんが「職人冥利に尽きますな-」と羨ましがっていた為です。 処でこの4〜5年前2人で話し合ってコンツェルト用の大きな引き締まった音の出る筝を 作って戴く約束をしたのですが、なんと出来てきたのは20年後息子さんの代になって からでした。 この回はニ十絃,三十絃もあり、三十絃は他の楽器と重ねて積んではいけないと言われて おり、車内にロープを張って其れに載せて運ぶと言う方法が取られたのでした。



2002年12月14日 第4回名曲鑑賞第2弾

20代の頃、私は「金は無し、暇はあり」と言う身分でしたので 笠井楽器さんに頼んでコンサート会場へ筝を運ぶアルバイトを させて頂いていました。今は無き先代の笠井さんも糸締め が上手かったので東京の先生方は大抵笠井さんでした。
* コンサートの入場料が無料
* 先生方の楽器を持たせてもらえる
* 楽屋で色々お話が聞ける

音の輝いていたのは坂本 勉先生でした。素晴らしい筝 でした。宮城喜代子先生 松尾恵子先生は見事な筝で 芸術品のようでしたが舞台で響かすのは大変な事です。 喜代子先生は男性のお付きの方がいて持たせて貰え ませんでした。藤井久仁江先生は正目筝で、澄んだ音 で音量も有りましたが他の人ではあんなに強く弾けません。 唯是先生は総玉斑で立派な筝でしたが、やはり響かすのは 無理みたいだったですがそれが な・なんとその時の私の 給料の40年分と聞いてビックリでした。 




2002年12月1日 第4回名曲鑑賞第1弾
           「稲田康さんの思い出


前回、合奏団「鼎」が子供の為の組曲を取り上げて下さり、当時京大を出たばかりの 石川憲弘くんが「鼎」の代表だったのですが、当時としては大変進んだ考え方で 外部から指揮者を招聘されたのです。
因みに「鼎」がどんなに立派であり私が お呼びして出演して頂いたかは23年経った今メンバーの殆どが今も活動して おいでの方々なのです。

そこで私共も早速真似をする事にしました。それが第4回「伊勢物語」です。   ところが たった1度だけの合同練習日に稲田氏が待てども待てども来ないのです。 「いずみ」コーラスの方は待ちくたびれてざわめき出しました。  筝の方は練習出来るのですがコーラスの指揮者は「関係無い」と来ていないのです。 其の内やっと連絡が取れ(携帯電話の無い時代)、今日は東京駅まで来たものの 腹痛でどうにもならず、Uターンして帰って来たと言うのです。 それからが大変です。誰も指揮の出来る人が無く、私が歌の出だしだけを合図して 通したのですが、勿論がちゃがちゃの惨憺たる結果です。この時指揮者の偉さが、 しっかり解りました。本番はどうだったか思い出せませんが、稲田氏は後に、この20年後 「日蓮」で見事な指導をして下さり、きっちり名誉挽回をされたのでした。
22年前稲田氏が まだグループ「いき」時代のエピソードです。




2002年11月11日 第三回名曲鑑賞第3弾
           「若き日の邦J田中編集長」



横浜出身の田中隆文君が関西大学の学生の時私と知り合い、 彼の尊敬する野坂恵子先生を第2回名曲鑑賞会にお招きした のですが、同時に青木鈴慕先生の大フアンでもあったのでした。 青木先生はずっと本名の静夫で活動をしておられましたが、丁度 第1回と同じ日が鈴慕の襲名披露だったのです。名門の上優雅で 上品であり、古曲等を吹かれると其の美しい音で人々を虜にして しまうくらいでした。もう其の頃から雲の上のような方でした。 田中君の発案は、彼はそのときスナックバーでアルバイトをして いるので「是非店へお越し願えないか?」と言う物なのです。 店の名前は「ホワイトホース」か「カーサー」のウイスキーの名前が 付いていました。梅田の今は兎我野町の所へ下見に行ってみると アルバイトの筈なのに、ボーイは居なくて彼が一人でやっていて (これってマスターって言うんでしょうか?)食べ物は造れないので 乾き物を無造作に器に盛っているだけでした。私は飲めないので 良く判らないのですが、先生をお連れするのは一寸内容が淋しい 様でしたが、もう一人逢いたがっていた小林一城君も誘うと、跳び 上がるくらいびっくりして飛んで来ました。田中君は名門の出らしく こんな時でも落ち着いて上手にマスターの役目を果たして呉れました 。一方一城君は彼にとっては神様のような鈴慕先生の前に出て、元々 真面目な性格が出て、うっかり何かが当たれば粉々に壊れそうな位に かちんこちんになり、冷房の効いた部屋なのに額は脂汗で光っているのでした。 卒業後田中君は独立して邦楽ジャーナルを立ち上げ、尚邦楽ジャーナルクラブ 「和音」も運営していますが、意外とこの関学時代のアルバイト経験がヒントに なっているのではないでしょうか?処で田中君は関邦連の委員長と同じに、 関大の邦楽部の部長だった筈なのに27年経った未だに尺八の音を 聞いたことがありません。彼の音楽レベルの高さは度々目撃していますが 不思議な事です。    

2002年11月11日 第三回名曲鑑賞会第2弾薄命の筝曲家


第3回の菊中美智子さんは奈良在住の方でしたが、自分の全てを 邦楽に向ける毎日で、私には信じられないような、ひた向きな方でした。 野坂先生の二十絃を聞くと直ぐ東京へ飛んで入門し、もう少し弾き込んで 楽器を自分のものにしてからと言う私の心配を物ともせず、名曲鑑賞会に 出演したいとおっしゃるのです。でも結果的には余り遜色無く聞こえ、ほっと 安堵の胸を撫で下ろしましたが、今度は「あの後とっても良い弟子が入門 して来た」から第4回も是非出演したいと言われるのです。演奏家は仕事 =宣伝と言われ、菊中さんのこの前向きな姿勢は私の共感を呼びましたので 出来るだけ彼女の希望をかなえてあげていました。でも邦楽にあれほど強い 執念を持った彼女も、病には無関心で私の度々の忠告には全然聞く耳が無く 4〜5年経ってあっという間に不帰の旅へ立ってしまわれました。お元気なら 良い友達になれた筈なのに・・・とこのプログラムを懐かしく読みました。

2002年11月01日 第三回名曲鑑賞会  


今回は沢井忠夫ではなく一恵さんの方をお招きしていましたが興味深いのは 、こういう中で「風の歌」が出された事でした。この演目はご本人の希望でした。    尺八は横山康子さん推薦の素川欣也君。後に忠夫先生が一恵先生に「どうだった?」    と聞かれると「上手だったわよ」と答えてくださり、ホット致しました。以前、安部桂子先生  (藤井久仁江先生のお母上)が人の上に立つ人は決して他人を誹謗してはいけない、  とおっしゃってましたが、さすがです。心の広さを感じる1場面でした。

2002年10月21日 第二回名曲鑑賞会 第3 弾 

コンサートが済むと、私は直ぐ東京の病院へ横山勝也先生のお見舞いに駆けつけました。 病名は盲腸炎と聞いていましたが、ひょっとして、退院なさっているかな?くらいに考えていました。 処が、先生は人間の体にメスを入れる等は余程のことで、其れは最後の最後でというお母様の助言 もあり、すっかり膿が溢れて腹膜炎になっておられ、退院の目途も立っておられないとの事でした。

私が青木先生にお渡しした出演料はもう届いていて、お礼を言われ「このお返しは元気になったら 必ずさせて頂きます」とのお言葉でした。でも病状は切り口から膿が止まらずお母様も大変ご心配 しておられました。私の経験で当時ラジウム温泉と呼ばれていた、浴材「みささ」をお送りしましたら 間も無く退院され、「みささ」も長くご愛用頂いておりました。

一方私の方は、コンサートの「風動」のお詫びに3氏を招く会を開く企画を立てました。 青木先生の希望者は13名で太融寺の広い広い座敷で行われました。大勢かも解らない・・・と 広い所を借りたためです。青木先生の笛を心行くまで聞き、私がびっくりしたのは一人一人あっと言う 間に良い音にしてしまわれたのです。この時大西君、小林君達は直門になりました。

山本邦山先生は申し込みは何故か3人なので取り止めにしました。あんなに人気なのに不思議でした。

横山先生は53名にも膨れ上がり、箕面の元、藤田男爵別邸で食事付きの豪華版で致しました。 長時間横山勝也先生の笛に聞きほれ、入門者もありました。処でこの日招待券持たずに一人の当時 誰でも知っている尺八愛好家が来てコンサートにも来てないので金を払うから入れて欲しいとの事。 無料とは言え換算すれば一人1万3千円です。熱心そうだったので入って貰いましたが、何時の間にか 帰ってしまいその後名曲鑑賞会の案内を送っても遂に1度も買ってもらえませんでした。



2002年10月11日 第二回名曲鑑賞会 第 2 弾 「ハプニング」

北海道から九州迄、全国に前売りチケット送らせて頂いた結果、2階席まで満席 になった第2回は、男性が異常に多かったのは3本会の人気であり第一風動は、評判 でした。フェスで自分の出番を終え、タクシーで駆け参じて下さった都山の方々は、入り口 の貼り紙を見て呆然と立ち尽くすのでした。「お詫び。横山先生急病のため、本日のプログラムの 「第一風動」の演奏はありません。其のために入場を止められる方は、御代を返還させて頂きます。」 ・・・でも帰られた方は0でした。

その代わり、青木鈴慕先生ご自身が案を出してくださり、古典本曲 をもう1曲演奏して下さり、風の歌は三橋貴風君に代演を御願いしました。2日前に電話すると、風の歌 は何時でも暗譜でやれるから是非したい!との返事をいただきました。彼は後日あちこちで「大阪で 邦山さんでも1曲しか貰えなかった会で2曲も吹かせてもらった」とむしろ代演を喜んでくれたのです。 邦山さんは「1曲にしといて」と減った方が良く、三橋君は多い方に生きがいを感じる・・・興味有る対比でした。

お礼には、はたと困りました。鈴慕先生から1人ずつ別々にと言われていたからです。考えた末わたしは 誰にも相談しないで横山先生にもお礼をお出ししたのです。この時の私の判断がこの後大阪の尺八界に 大変な熱風を巻き起こすのですが、それは10月20日にお話します。  



2002年10月01日 第二回名曲鑑賞会

横浜の貴公子=田中隆文君との出会い
第1回目から3年の月日が経ちました。田中君は御祖父さんが、横浜で政界でも名の有る 上流階級のご子息で、本来なら私などお相手をして頂けるはずは無かったのですが、同じ 邦楽の同好の士の誼(よしみ)で急速に親しくなりました。 ある会で隣同士にて、田中君は既に私を知って居ました。何と彼は関邦連の委員長との事。私は このとき、この関邦連の重みを未だ認識していませんでした。
この田中君が今の邦楽ジャーナルの 編集長なのですが、彼と知り合った事は大変ラッキーであり、私の生き方に大きなプラスでした。 この田中君が野坂先生を一生懸命に推して呉れたのです。

この日は幸か不幸かフェステイバルホール で都山流の全国大会と重なったのです。ところが又しても天は吾が味方をして下さいました。 この会は男性の名で遠い地方から何しろ大量にチケットの注文が来たのです。 私どもの厚生年金会館はタクシーで5分程の所です 。一度聞きたかった3本会が「風動」やってる。えっ、「産安」も。久仁江さんとノンちゃん鈴慕さん が「残月」をー?となったらしいのです。一仕事終えた邦山さんがフェスに帰って開口一番「ひゃー。 ノンちゃんの名が末席に書いてある会にいってきたぞー!」

かくして全国の都山流の士の期待を 集めた3本会の「第一風動」はどうなったでしょう?大ハプニングが起きるのですが其の話は10日後に・・・



2002年9月20日 第一回名曲鑑賞会第 3 弾

埋もれた名手を探し出して脚光を当てる。 この会が登竜門の役目を果たせたら すばらしいな。又身近な所から意外な人が抜擢されると・・・或いは自分も?・・と、 ゆめがふくらむはずです。

 でも実はこれは大変難しい事なのです。 尺八では小林一城、橋本慶山、鹿野良男の3君が選ばれました。 3人とも学校を 出て間も無くであり、すばらしい勢いで伸びてきていました。   小林君は既に製管の道を選んで居ましたがまじめな性格がマッチして今は、 皆さんご存知の1城銘尺八として愛好家を大勢擁し成功しておられます。   橋本君は山田先生のお相手を見事にこなしましたが、就職した会社が立派 だった 事から仕事も忙しくビジネスマンとなり幻の尺八名人と未だに惜しまれています。   鹿野君も音がきれいで奏法は橋本くんと正反対でした。東京の会社でしたので 松村先生宅へ泊まり込みで特訓を受けました。彼は第20回に一文を書いてくれて 其の中に偉大な松村先生の前で其の大きさを知り立ちすくんだ様を書いています。 「天狗になっていたのですね。あの日の記憶は、ものすごい汗と、唇の乾きだけです。 あの時へし折られた鼻を抱えて25年経ちました」ぷっつり止めていた彼は25年(第20回) を期に日曜毎友人と集い趣味で始めています。


2002年9月11日 第一回名曲鑑賞会第 2 弾

  名曲鑑賞会を開催するに当たり、私なりに夢を描きました。

1、大阪ではあまり聞けない邦楽の名手に御願いしよう。
1、隠れた名手を見つけてスポットライトを当ててあげたい。
1、ステージの組み合わせは世間の意表を突くものが良い。

  これが大きな骨子になりました。第一回では実現しなかった、当時タブーだった都山流と琴古流が 同一ステージで共演して頂きました。流派にこだわらないと言う目的からです。

4番の「尾上の松」私の憧れの曲です。これは当時若手NO,1の藤井久仁江先生 以外考えられません。藤井先生は即答でOK,でしたが、筝を銀明会幹部の方を推されました。 私は先に挙げているモットーの事も有り沢井忠夫先生を推したのです。沢井先生は「こっちから 頼みたかった。有難う」と言われましたが藤井先生はご面識が無く「沢井さんってバリバリ弾く人 ですって!古典が壊されないかしら?」と心配されているのがあちこちから聞こえてきました。 沢井先生にもそんな声が聞こえたのでしょうか?当日は絹糸を張られました。 でもこれが裏目に出てしまいました。未だ幾ばくも弾かない内、断線したのです。 理由は簡単でした。沢井先生は強力テトロンをがんがんに張って弾かれる先生です。すぐ、 春の海を終わってそのまま置いてあった尾崎の筝が舞台へ運ばれました。 その間沢井先生の筝をチェックすると、案の定絹糸に慣れていない沢井先生お付き の楽器店が19番の強力テトロンと同じようにがんがんに締めていたのでした。  

 ・・・・・この後、藤井先生に石黒さんを始め若い門下生が急に増えました。 沢井会では「尾上の松」は十八番になりましたが、何故か沢井先生は常に三弦で「尾上」の筝は 自分では弾かれませんでした。筝の人が歌も最後まで唄うのです。そのうえ絹糸も嫌いになられました。

それにしても東京で絹糸を締めてもらった時”矢野 力さん”との会話が思い出されます 「尾崎君 どうしめる?」「なにが?」「終わったら切れるのか、家に帰ったら切れるのか、 3日経ったら切れるのか」・・・ウーンこれぞ糸締め名人のことば・・・・。



2002年9月1日 第一回名曲鑑賞会

第一回名曲鑑賞会はアルソア〈当時は央粧ブランド)の販売を始めて1年も経っておらず 売上も月100万以下でした。ですから第一回はスポンサーもなく、ギャラが要らなかったの は、1番と12番の「矢車」だけでした・・・でもこの曲が以外や好評で、その後沢井会で労音等に私 も随分出演させて頂きました・・・。

先生方への出演料は意外と少なくて済みました。  と言いますのは邦楽で立派な方を選んで、一堂に 会して聞かせて戴くという習慣が無くて(勿論文化庁などもやって呉れません)有っても 門下生の発表会とかで入場料は大抵無料でした。 でも尺八の山本邦山氏は当時すでに 有名でこの中では一番演奏のプロで、正派と都山流をバックに活躍しておられましたが、丁度 渋谷公会堂で春の海の相手を弾かせて頂いた後だったのですんなり頼めました。 トップの久仁江先生にお礼の事を恐る恐るお尋ねすると「・・・三万・・多いかしら・・・」と 遠慮そうに言われ、それではあまり気の毒なので増額させて頂きましたが、邦山さんも 久仁江先生も人間国宝になられ、いまはこの20倍でも足りないのではないでしょうか?

8番の 「三つのインベンション」は、牧野由多加先生が沢井先生の紹介で、3人の為に書いてくださった初演の曲ですが、プログラムの書き方も知らなかったかけ出し時代でした。