第11話 筝弾きの寿命 (2003/12/29)
沢井忠夫師が50歳位の時でした。しみじみと私に「この頃“手事”(宮城作)が 上手く弾けないんだよ」と淋しそうに仰った事があります。羽賀先生も同じ事を 言っておられました。このお二人は共に宮城道雄の「手事」をもうこれ以上には 上手に弾けないと言われて正に神技とまで評価されて颯爽とデビュウされたのです。 其れよりも伝記「宮城道雄」を読んでいますとやはり神聖宮城道雄も同じような悩み を亡くなられる前に側近に漏らしておられるのです。
やはり世に言われている「筝30歳三弦 50歳から充実して来る」と 言うの本当で油の乗った時期はスポーツ選手と同じ20年くらい。後は芸術性を高め て所謂枯れた 高貴な味わいを出すわけですがこの「枯れた良さ」が邦楽の強みなのです。
実は今年初め東京芸大の深海先生がいとも鮮やかに「手事」を弾かれたのですが お聞きすると「こうゆう曲が何時でも弾けるよう基礎練習を重ねてます」との事で す。 人間国宝の藤井久仁江先生は過って入院された時ベッドの中で鉄アレー上げをして 腕の衰えを防がれたそうですが、沢井先生は腕立て伏せを薦めておられました。 腕の衰えが芸の衰えなのですが、深海先生がなさっているような(ご自身で編み出さ れたとか) ピアノの人は誰でもやっているハノン練習曲に匹敵する物を持つ必要を感じるので す。 聞けば深海先生が皆の要望にお答えされて出版して下さるとの事。良い事ですね。 私も無謀にも64歳の「手事」を2月11に日メルパルク「合歓木コンサート」でチャレ ンジ するのです。40年間、基礎練習をやっていたつもりですが果たして60歳の壁は 破られるでしょうか?(陰の声・・下手だったら誰でも弾けますよ)
第10話 横山勝也先生の事 (2003/11/13)
今回(第15回)思い切って上弦の曲にチャレンジした訳ですが、私ごときが 勝也先生に笛を吹いて頂くなど本当は恐れ多い事のなのですがこの曲は、 どうしても勝也先生でなければならない曲なのでした。それまでも小さな会で ちょこちょこ他の人と演っていたのですが、私は尺八が「主」だと思っていても 未熟な筝の方へ合わせてくださったりで失敗ばかりだったのです。 勝也先生はイントロの長い尺八の独奏部を「慣例ではカットするのだけど?」 とおっしゃったのですが、私に言わせると、とんでもない事で1番大切な所です。 練習は私が東京へお伺いして色々ご注意を頂戴し、其れを基に勝也先生の大らかな吹奏を妨げないよう、そして自分もきらりとしたものが出せるよう 毎日練習を重ねていったのです。だが前日のリハで無力な自分を改めて 思い知らされたのでした。
横山勝也先生と言う偉大な山の前に、ころんと 転がっている石ころが自分でした。最後の練習が当日の午前に持ち越されたのは 私が主催者なので出来る我侭でした。客席で聞いていた「栗君」こと栗林秀明君が 上に上がってきて「尾崎さんが今思っているよりもっと大きな波だよ」と言ってくれ て ハッと我に返りました。本番は無心になって大きな波をうねらせる事が出来たので す。 勝也先生はもっと大きな波で今まで聞いたことも無い素晴らしいうねりでした。 その素晴らしさに、緞帳が降りた後、私は、意味も無くはらはらと涙が出てくるので した。 勝也先生は「今までで一番良かったね」とぽつんと言われました。 会の終了後、私がロビーに出ていると福井県からわざわざ来て下さった大先生が私を 見付けて駆け寄ってきて「尾崎さん」と言って絶句し、目に一杯涙を溜めて手を握り 締めて下さったのでした。岡山県で活躍されている先生が「来年、岡山で今日の曲を弾いて くれん でかの?」と言って下さったのも嬉しい事でした。横山先生の大きな懐に包まれて二 度と 味わえない大きな体験が出来たのでした。
その後先生は何年か後の11月3日文化の 日に 天皇陛下の前で、文化勲章を受けられたのですが陛下も皇太子時代に何度か外国へ 勝也先生を同行されているので感慨深い思いを抱かれたのではないでしょうか?
第9話 やり易くなった名曲鑑賞会 (2003/09/14)
邦樂界に若手が大挙して生まれてきた・・・・何故なのか?理由は定かではな い。 何故「筝」を勉強する気になったのか?訊ねてみても其々の動機で共通点は無い。 この会の始まり、つまり平成元年より18年位前に沢井忠夫の活躍が始まっていたの ですが、 其の繋がりは殆ど無く、只、作曲には多大な影響を与えたのです。それは「作風」 ではなく、楽器の使い方に大いに影響を与えた節が見える事です。 ともあれ第11回が大変な熱気であった為、奈良市の商店会の青年部のスポンサー が現れて、アンコール公演ですぐに奈良で演ることになったのです。(第12回)。 1年おきだったのが1年で二回出来、押し寄せてきた聴衆の多さにびっくりした私は 次の年も続けて後援を御願いし、柳の下の二匹目のドジョウを期待したのでした。 商店会の方々はほんとに良くして下さって第13回も大盛会でした。私の忘れ得ぬ 思い出となりました。
第8話 「若手作曲家キラ星のごとく現れる」 (2003/07/14)
名曲鑑賞会は大体1年前にはおよその会の構想が出来あがっているのが 普通である。私の遣り方は先ず尺八を決めて弦楽器と人を包み込んでいく。
第11回は先ず中心の横山勝也先生。又もう一度ハワイからリー君を呼ぼう。 坂田梁山は音がきれいからもうちょっと人気が出せる筈。ジャーナルに載っていた 岡山から東京へ出てきた田辺兄弟は?邦山の彩画を岳人山を加えてやりたいけど リー君じゃ練習にお金が掛かるから菅原君をよぶか!と言う具合である・・・・。 坂田君に「東京で良い曲を作って売れてない有望な若手は居ませんか?」と訊ねた 答えが、吉崎さんと水野さんのCDが出たとの事。今度ジャーナル後援のコンサートが 有るよ、と言うので直ぐ東京へ行ったのでした。田中編集長を中心に打ち上げパーテ イー の席で吉崎先生が「水野君。大阪からコンサートの事で見えてるから出てこいよ!」と電 話 して下さったのですが夜はアルバイトの学習塾があるので出られないとの事であっ た。 それから待ちの1年で吉崎先生はあっという間に売れっ子に成長され、仕事が無くて アルバイト中だった水野先生のCDが飛ぶように売れて並べていた3倍注文があった のです。 かくして関西を皮切に吉崎、水野時代が始まったのでした。
第7話 「尺八合奏の夜明け」 (2003/04/21)
西洋の教訓で(モーツアルトの頃)フルートはチェンバロと合奏すると 下手になるので、うんと上達するまではしてはいけないと言われていました。 フルートは音程の取りにくい楽器でチェンバロも狂い安い楽器だった為 と思われます。
尺八は逆に筝の先生に合奏をお手合わせして頂かないと上達しない と言われています。 処が昭和40年頃は尺八が何人か集まると常に律の合わない不協和音が ついてまわりました。今度の6月「笙」を御願いして念のため「ピッチ」を お聞きすると435hzの答えが返ってきてびっくりしましたが聞いたおかげで 事無きをえたのです。其の頃古典の人は435も混じっていらした筈です。 「秘話」でお話しましたが、永広真山氏がいち早くヤマハの開発したピアノチュー ナーを 製管に採用されたのは尺八の近代化に大変意義の有る事だったのです。 私のヤマハの立場を利用して円く収まったのですが、技術課にいて一般職より 高額だった私の月給の二ヶ月分より多かったのを覚えています。
真山銘尺八は折からの新日本音楽ブーム、それによる膨れ上がった大学の 尺八クラブの隆盛に大いに貢献しました。私の親しい製管師でここもブームで 琴古、都山両方に随分沢山販売されていましたが音程が不ぞろいだったので 私が心配してチューナーをお持ちしたのですが、機械を前に吹奏されると 激しく乱高下する為、「こんな機械があると尺八が売れなくなる」と吐捨てるように 言われたのが真山さんと対象的でした。私もこの頃関西外語大の尺八部の 講師に4年間行ってましたが尺八は真山銘にさせたので合奏が楽でした。 その後真山さんの弟子も何人か育ちそれぞれ優秀で、また邦樂界もピッチ 442が普通となってきました。いまは「“ロー”を下さい」などの言葉は 少なくとも名曲鑑賞会では見かけません。(何の事か分からない人います?)
第6話 「私が歌舞伎を好きになったきっかけ」 (2003/03/11)
歌舞伎は中国の京劇と肩を並べる歴史有る立派な、世界に誇る芸術ですが 、全てを理解して劇中に入り込んでいる祖父を、不思議な人種のように思っていまし た。
私が古典歌舞伎からはじき出されてしまったのは言葉でした。 正直、子供の私には、何を言っているのか理解できず、プログラムの解説で あらすじは理解しているものの、オーバーな動作がわざとらしく映るのでした。 それが「ケネデイーホール」へ、全部アメリカ人で、英語で上演している勧進帳を 観に行く事になったのです。私はホールへは行って見たかったのですが内心不安 でした。と言いますのは、今まで私は外国人から日本の文化に関する事で質問を受け ると、 即座にエピソードを交えてお話して日本を知ってもらい好きになって貰えたのです が、 もし私が日本人と言う理由で歌舞伎の予期せぬ質問を受けたらどうしよう? 義経と 弁慶が安宅の関を通過しなければならない理由もしっています。賢い富樫も知ってい る。 でもお話した通り歌舞伎は理解していないのです。 処がどうでしょう?英語の台詞はなんとシンプルでスマートで判り易いのでしょう! 舞台道具も金をかけたかなり本格的に見えました。説明を受けるのは私でした。 これは有名な日本の大学教授が翻訳したものを使い歌舞伎の演技指導を受けている。 長唄はプロの杵屋何某師の指導を受けているもの・・・・ と言う具合で、如何にアメリ カが 日本の文化の接近に力を入れているか。今日の主役の弁慶は、まだ大学生で 来年から政府の助成で日本へ行くのが決まっている。と話していました。その弁慶君 も 今、40歳位の筈です。立派な人になっておられる事でしょう。 でも、そんな私にも首をかしげる部分も有りました。 長唄です。弁慶や富樫の勇壮でテンポの有る所はまだ良かったのですが、繊細な表現 の 義経をゆったりした「アイ−ン!ツアイ−ン!」と延ばすとお経そっくりになったの です。
第5話 「日米尺八事情」 (2003/02/15)
第6回のプログラムで、「あれれ?」と思われた人が、このHPで有ったと 思います。・・・ライリー・リー君をアメリカから招いたのですが、彼は非常に 親日家であり、そして、こよなく日本の文化を愛していました。 曲の選考に当たり、遠来のリー君には古典が相応しいことが判りました。 其の結果アメリカ人のリー君が古典で、現代的な西洋文化の影響を受けた 曲は日本人アーチストが尺八を受け持つ結果になったのです。反対ですね。
現在シドニー大学の教授の彼はこの時は、ハワイ大学で教鞭を執っていました。 私がハワイへ出向いて出演を御願いしたのですが、驚きました。日本芸術館が 別棟で建っており、それが何と広い事!100畳は有るでしょう。畳もきれいで、そ の上 大きくて立派な和太鼓がそばへ行くと私の背より高いのに小さく見えます。 彼は私の申し出を聞き「残念!其の日は鈴木首相がアメリカへ来て、其のレセプショ ン で僕が尺八を吹く事になってる。」「すごいね!リー君。良い事だよ!頑張って下さ い。」 と激励して帰って来ました。でも間も無く日本へ電話がありました。 「Mr.尾崎。やはり日本へいきます」「どうしたの?総理大臣の前で尺八を演奏す るなんて 日本人には絶対に無い名誉な事なんだよ。」「うん。でも僕は鈴木首相がそんなに尺 八が 好きでない事を思い出したんだ。」・・・アメリカのレセプションがどうなったのか は聞いていません。 誰かが代演したのではないでしょうか?アメリカも吹き手は多いですから・・・。 尚、その時彼は悩んでいました。もう1度アメリカの援助で日本へ留学が出来るのだ が、尺八で 生活するのは大変だから別の学問の方がいいかもしれない・・と。(日本と似て る)。 私は「学問は自分が1番知りたい事をするのが良いと思う」と答えたのですが、やは り彼は 尺八を選び博士号を取ったのです。
第4話 焦り (2003/01/05)
この頃は、大学へ訪問してみても何処も元気が無く、チケットもなかなか買ってもらえず 私も困り果てていました。そして何故か第5回は台風シーズンの9月19日です。 厚生年金ホール指定の日に、申し込みに行くと既に何人か並んでいて1番の人は、 2日くらい前から並んでいたとの事でした。毎月行っている内、台風シーズンの皆が 敬遠する時期になったのでした。 プログラム一部に書いている6歳の優秀な女の子に 黒髪を教えて止めてしまった話など、この当時何処でも有る話で、知り合いの先生の お嬢さんが大変琴の素養があり、出来れば将来東京の芸大へでも・・と或る大先生へ 転門して来ました。小3でした、第一回目のお稽古が6段の調べ。それもG1の低調子。 3ヶ月経っても上がれません。女の子は遂に言いました。「もっと柱をこっち(右=高音) へ並べたら弾ける!」 師匠は仰いました「お笛と合わなくなるのよ」 女の子は遂に筝を 諦めました。こんな現状を嘆いて、私なりに五線譜の講習会を私の主催で度々開いたのでした。 筝を楽しく・・・今では誰でも理解できる事です。
「邦楽大阪」の初秋号に載った大阪市の小学校(何百有るのでしょう)に筝の有る学校が 一校だけと言うのも(巻頭の言葉)もショックでした。
この時から私も「学校教育に邦楽も」 に参加させて頂いています。第4部にクラシック音楽を持ってきて「筝でこんな曲も弾けますよ」 とアッピールしたのですがこの中の東大生のグループに何と水野利彦さんが入って居られたのです。
第3話 大学の尺八クラブ衰退 (2002/12/01)
第4回は昭和55年になるのですが、各大学の尺八クラブは目を覆う状態でした。 プログラムの巻頭の私のご挨拶は22年前とは思えない、「今」の事ではないかと 錯覚を起こすくらいです。 理由はいろいろあったのでしょうが
1、大学が荒れていて学生の心が落ちつか無かった
2、根気の要るクラブは敬遠され刹那的な物が好まれた(食べ歩き等)
3、尺八クラブと言う言葉の響きが悪いイメージで嫌だ
4、情熱のある、格調高い良い指導者に恵まれなかった
1、は大学が落ち着いてもそのままなので余り関係が無かったかも知れません 一寸違うかもしれませんが音大、芸大は内ゲバ問題は起きませんでした、 4、は京都の芫山先生が行っておられる学校は生徒も多いと聞いています。
ですから私は、情熱を沸き立たせるコンサートにしなければと益々使命感に燃えるのでした。
第2話 央粧〈現アルソア)友の会誕生 (2002/11/01)
第2回から現アルソアの央粧豊中営業所(現アルソア日成)が名曲鑑賞会の後援を させて頂いた事もあり、筝の先生でアルソアを使用して下さる方が急に増えました。 そこで私のアイデイアで央粧友の会を発足させました。第3回はこの友の会が主催です。 プログラムの後へ会員名を抜粋で載せていますが、教えている人だけでも33名も有り これは伝統の有る豊中三曲協会よりも上であり、ちょっぴり嬉しかったです。 ですから地歌と筝と尺八の大御所を3人お招きし、あと友の会が中心になりました。 この時、石川憲弘君(まだ京大生でした)達に御願いした子供の為の組曲に稲田康氏を 指揮に御願いした事で後に、良い展開が始まるのでした。 処で第二回の写真が急に若返り、写真やさんでも、「見合い写真ですか?」と聞かれ 〈3人の子持ちなのに)たのですが、アルソア使用暦4年の効果が出たのでした。 そして友の会まで出来た、この第3回では5年目であり、何と売上全国5位以内に入り シンガポールへの招待状が来たのです。・・・処が時同じく、ヤマハで全国的キャンペーン があり、大阪支店技術課在籍の私が日本一の座を獲得し社長賞を受けると言う、調律師が 社長賞を貰うと言う歴史上初めての異変が起きたのでした。 こちらは浜松の「妻恋」で表彰式。 身体は一つなので行きたかったシンガポールを蹴ってヤマハ「妻恋」へ行ったのでした。 この選択が又又その後の私の人生をラッキーな方へ大きく導いたのです。其のお話は何かの折にして 実はこの時、歯石の取れる歯ブラシの売上も西日本1位でした。そんな中でコンサートは行われ、私は 茶音頭の三弦を弾いたのでした。
第1話 日本の音楽の隆盛を願って28年 (2002/10/01)
私は職業を通じて、音楽界の事情に他人様より多少詳しくなり 、其の結果、当時の邦樂会の現状を見て居ても立っても居られない気持ちになりました。演奏会はプロの方のは少なく発表会が主流でした。入場者は多かったですが一般の人がそれを邦楽のコンサートと思い込んでいた。宮城曲は多かったですが曲のテンポも遅く、久本曲の飛躍は随分聞かされました。知り合いを邦楽の会に誘うと、大抵「行った事が有る。眠くなるから」と断られました。これは近い将来大変な事になる。殆どの日本人は自国が育てた立派な文化に接しないで 、過ごす事に成ってしまう。これは日本の大きな宝物を失う事ではないのか? 私自身、横山勝也さんの古典を一度聞いてみたいし、他の立派な演奏も聞きたい!
こんな事情のもとで、今の「アルソア」の会社「央粧」で、次男の修央のアトピーが治ったり 、家内の顔の吹き出物や、シミとそばかす迄取れて愛用していた所、あまりしばしば東京へ 注文するものですから、メーカーから「大阪に販売している人が居ないので是非こちらで」 と、進めに来られました。其の時私の頭をよぎったのは ・・・アルソア(央粧)が売れたらコンサートが開けるかも知れない。店を作って2階で教室も・・・其の夢は間無くかなえられました。
当時私はお陰様で「ヤマハ」技術科で何不足無い給料を頂いていましたので、自営の方からは給料を一切貰わず、その代わりコンサートを開催させて頂く。 家内の「化粧品の販売をしないで!」と必死で止めるのを「絶対君には迷惑を掛けないから」と始めたので、ずっと家内は子育てもあり、出てきませんでした。店はアルバイトの女性に 任せっぱなしでした。結果的にはこれがラッキーでコンサートへ大金を寄付してもブレーキを掛ける 人が居ませんでした。家内もそれによって被害を受けるわけで無く、当時は未だ若く、主人が 喜んでしている事だからと、むしろ協力的でした。私達の良い時代でした。